大崎上島に伝わる民話です。

大崎上島の歴史や伝説、昔話、民話の研究を研究されている金原兼雄さんが集められた民話を金原兼雄さんのご指導のもとに平成19年~20年頃デジタル化研究会があったのですが、HPにアップするのが遅れていたのと場所が無くなりましたのでここに掲載します。


大崎上島民話1


日本の民話「安芸の宮島広島の昔話」

 

 現在日本三景の一つである厳島神社は、又の名を宮島大明神といって世の人々に親しまれていますが、このようなお話が残っています。

 

この宮島さんのお祭りの一人である「市杵島姫命」にはその昔、二歳になるお子様がおりました。それはそれは、かわいらしいお子様で姫のかわいがりようは、目に入れても痛くない程のものだったといいます。

 

 ところがある、日大変な事が起こりました。

姫のかわいがっておられた、このお子様が突然姿を隠してしまったのです。どこへ行かれたものか、誰が連れ去ったものか、さっぱ見当がつきません。姫は大層嘆き悲しんであちらこちらと、あらん限りの力を絞ってお探しになりましたが、その努力の甲斐もなく、とうとうお子様を見つけることはできませんでした。

 

 さて、それからというもの、姫はすっかり元気をなくしてしまわれました。毎日毎日、遠くを眺めては、ほっとため息を尽くばかり。また、どういうわけか雉の鳴き声を聞くと、身にしみて耐え難いといわれるようになりました。

 

 そして今まで住んでおられた土地を離れ、どこか平和で美しい、安住のできる土地を求めて遍歴の旅に出られたのです。

 

 瀬戸内海に浮かぶ美しい島を眺めながら船を進めていくうちに、やがて姫は大崎島の神ノ峰を見つけられました。まず、木江浦に寄られ、上陸してみたものの、山道は険しく木が生い茂り、とても登っていけそうにありません。

 

そこで、船を北西に廻して矢弓の加組の鼻で一休みしていると、大崎の大西では皆んなで海に鳥居を作って、姫の来られるのを歓迎しているのが見えました。

 

 早速姫は、その方に向かって船を進め、神ノ峰に登ってごらんになると、そこからの眺めはまた一段と素晴らしいものではありませんか。姫はこの地こそ安住の地であると思われ、沖の小島に見とれておりました。

 

 ところがその時です。

 

一羽の雉がどこからともなく飛んでくると、姫の頭上で糞をして逃げていってしまったのです。姫は、日頃から雉を心よく思われていなかっただけに、この出来事を大層気にかけられて、とうとう神ノ峰を立ち去って行かれたといいます。

 そしてその後、大串の外浜で船に乗せられて他の地を求めて、西へ船を進めていくうちにやっと理想的な安住の地を見つけられました。それが今の宮島であると伝えられています。

 

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厳島神社の祭神

祭神は次の3柱(宗像三女神と同じ)。

 この民話に出てくる市杵島姫命が立ち寄られたゆかりの地、木江、矢弓、大串には姫を祭る厳島神社が建立され今日に至っている。また、姫を迎えた大西にはその昔、海であった場所に伝説の大鳥居の朽木が残っており、また八幡山の西南西、鹿の池谷にかって大西厳島明神鎮座の旨が文政二年(1819)の中野村の国郡志御編集下弾書出張控に記載されている。


神ノ峰に宮島さんが鎮座されていたという話

 

民話その一

 

 昔むかし、その昔、厳島明神が安住の地を求めて、木江浦(今の木江港)に船を寄せられて、神ノ峰に鎮座されていました。ある日、四方の美しい眺望を愛でていたところ、遙か西の彼方の厳島の弥山が扇の高さだけ高かったので、大串の外浜から船に乗られて遷座されたという。船に乗られた地が大串の厳島神社だと伝えられている。

 

 

 

 

民話その二

 

 昔むかし、厳島明神が鎮座の地を探して神ノ峰にお登りになった。頂上の美しい眺めが素晴らしく、お気に召したと見えて、「これまさに秀霊の地なるかな」とのたまう宣わせられた時、あいにく一羽の雉が飛んできて、明神様のお頭に糞を垂れかけて飛んで行った。

 

 明神様が激怒されたことは申すまでもないことで、直ちにこの地を払って宮島に遷座されたという。

 

 以来大崎島の雉は神罰によって尻が腐ってしまったと言われている。宮島に遷座されるとき乗船された場所が大串の外浜の厳島神社の地と伝えられている。

 

 

民話その三

 

 昔むかし、大昔、厳島神社は生口島の瀬戸田に鎮座されていたが、ことの外、蚊が多かったので、この地をお嫌いになり、安住の地を求めて大崎島に渡ってこられ、神ノ峰にお登りになられた。

 

 ところが、峯の素晴らしい眺望が一目でお気に召されて「この地こそ我が住まいにふさわしき場所なり」といわれて鎮座されたという。或る日のこと雉が蛇を殺すの見られて、大変嫌がられていたところに、一羽の雉が明神様の頭に糞を垂れかけて飛んでいった。

 

 明神様は大変お怒りになられて神ノ峰をあとに大串の外浜を経て、静かで美しい厳島の弥山に御遷座されたという。


宮島さんの大鳥居

 

 その昔、海であったといわれる水田に、宮島さんの大鳥居との言い伝えがある朽木が今も残っている。

 

 毎年元日には注連飾りを取り付け、お神酒を供えて新春をお祝いする外、夏の宮島管弦祭の十七夜夜には、満潮時の潮水を汲み、この朽木にそそぐ神事の仕来りが、今も水田の地主の家では続けられている。

 

 南寄りに隣接して、かって厳島明神が鎮座されていたとき、明神様のお使いといわれる神鹿が水を飲みにきていたと語り伝えられる、年中清水の湧き出る鹿の井戸と呼ばれる井戸がある。

 

 また、明治初期までは、この水田で取れた稲を初穂として、現在の厳島神社に奉納されていた由、鳥居跡といわれる水田は、昔から女人禁制で田植えから刈り取りまですべて男の仕事であった。

 

 昔は一反三畝程であったそうであるが、世は移り変わり、今は縮小されて、鳥居の朽木周辺の僅か二坪足らずの水田にのみ、この風習が守られている。



直兵衛の首きりもち

 

 むかし、浪速(いまの大阪)に直兵衛というひとりの船頭がおった。

生まれは大崎島という瀬戸内の小さな島である。

 

 ある年の暮れ、直兵衛は九州の殿様の御用で年貢米を大阪の蔵屋敷へ船で運ぶことになった。

 

 直兵衛はさっそく、荷を積んで船出した。

 

 日和も良く、潮にもめぐまれ、船は順調に進んで、直兵衛の生まれ故郷である、大崎島のあたりまで来たのは、船出してから四日めの夕方のことであった。

 

「永いこと帰らんが、みんな達者かのう。」

 

 直兵衛がなつかしい思いで島のあたりを眺めておると、島の磯のあたりで、四・五人のものが、なにやら白い布のようなものを、しきりに振っておるのが目についた。

 

「おうい・おうい」耳をすますとかすかに声も聞こえてくる。

 

 どうやら自分の船を呼んでおるらしいが、大事な御用米を運ぶ途中じゃむやみに、寄り道するわけにもいかん。

 

 そのまま、船を進めておったが、自分の生まれ故郷でもあるし、それに、なにかわけがありうにも思えたので、立ち寄ってみることにした。

 

 「おう、直兵衛さんの船じゃったんか、これはよかった。」「よう島へ上がっておくれんさったの。」

 

いそに出ていた顔見知りの村人たちは直兵衛の姿を見て、泣かんばかりによろこんだ。

 

 「わしも、しばらく帰らなんだが、みんな元気か。」「元気なもんか、この骨と皮ばかりのからだを。」「そういえば、そうじゃ、いったい、どうしたというんじゃ。」

 

 「お前さんの船を呼びとめたのも、実は・・・・・。」と話し始めたわけというのはこうである。その年、瀬戸内の島々は近年にない日照り続きで、とくに大崎島はひどかった。梅雨になっても雨が少なく、降ってもおしめり程度で、田植えはできんし、飲水にもととかく有様じゃ。

 

 困った村人たちは、山に登って火を炊き雨乞いもしたが、日照りはいっそうひどくなるばかり。

 

 ふだんでも食料の乏しい島のことでそのうち、わずかの蓄えも、すっかり食いつくしてしまった。

 

 「正月も近い、なんとかせにゃ、島中がみんなかつえ(飢える)死んでしまう。」村人たちが直兵衛の船を見たのは、そんなときであった。

 

直兵衛は話を聞いているうちに、村人が自分に、なにを頼もうとしておるのかが、すぐにわかった。船に積んでいる米をわけてくれというのである。

 

 「直兵衛さん通り合わせたのも、なにかの因縁とおもうて、どうか、わしらを助けてつかあさい。」

 村人たちは、直兵衛さんの前に土下座して頼んだ。直兵衛は困った。

 

 しかし、話を聞いたからには、ほうっておきわけにはいかん。

 それかというって、大切な御用米に手をつければ、自分はおろか、家族まで殿様から、厳しいおとがめを受けるにきまっておる。

 

 困りきった直兵衛は、「一晩考えさせてくれ」と村人に頼んだ。あくる朝、直兵衛は村人達の案内で、村のあちこちを見て歩いた。話の通りその荒れようは、ひどいものであった。

 

 昔し、小ブナをすくった小川は、川底を見せ、遊び廻った野山の草木は、からからに干からびている。腹をすかした子供達の姿は、直兵衛の涙をさそった。

 

 船に帰った直兵衛は、すでに心をきめていた。(船の米を、一粒残らず村人にあげよう。殿様には、船が沈んだと言えばいい。それでなお。罰せられても、島のためならかまわん。)

 

 その夜、直兵衛は年貢米を、一粒残らず島におろすと、船に穴をあけ、海の底に沈め、難破船に見せかけたのであった。

 

 そして、船が沈んだのを見とどけると、自分は、いそぎ小船に乗って、九州の殿様に報告にいった。

 

 「わたしの不注意から船を難破させ、大切な御用米を海に沈めてしまいました。

 

 このうえはいかようにもおしおきください。」ところが悪いことに、うまく沈めたとおもうた船が、そのまま伊予(現在の愛媛県)の大洲に流れついた。

 

 そして土地の役人に調べられ、その船が直兵衛の船であること、そして、積んでいた御用米を、全部村人達に与えたことなど、次々に知られてしまった。

 直兵衛はすぐに、役人にとらえられた。

 

 「お上の年貢米を、無断で分け与え、その上、船を難破船に見せかけるなど、お上をあざむく、ふとどきな所業である。」というて、死罪をいいわたされた。

だが、もとより死は覚悟の上、直兵衛は後悔せなんだ。

 

 はりつけの刑は、村人の見せしめもあって、直兵衛の生まれ故郷である大崎島の脇の浦でとりおこなわれた。

 

 文政九年(一八二六)十一月二十六日、直兵衛、三十三才の若さであった。遠くから見まもっていた村人達の嘆き悲しんだことは、いうまでもない。

 

 村人達は、役人が帰ったあと、こっそりと直兵衛の亡がらをもらい受けて密かに弔いをすますと、その骨を、浄泉寺山に手厚くほうむった。

 

 そして、それからのち、村人達は、直兵衛をいのちの恩人として、永く供養すると共に、命日の十一月二十六日はいうまでもなく、六のつく日には直兵衛さんにすまないといって、「もち」をつくことを避けるようになった。

 

 この習わしは、いまでも残っていて、もしも六のつく日に、「もち」をつく者がおると、<直兵衛の首きりもち>といって、その人をさげすむという。

      

     広島の民話   再話・大町美智子氏


長九郎鼻の由来

 

 昔々のこと、世は麻の如く乱れ、政治は地方まで行き届かず弱肉強食の頃、各地では血なまぐさい国盗り合戦が行われていた時代のことです。

 

 瀬戸内海の沿岸や、島嶼(しょ)部には中小の海賊が出没し、内海を航行する船を襲い、積荷の略奪などが頻発していました。

 

 あるとき、柳井の瀬戸(当時は安芸の地乗り航路といって大崎島と安芸津の間が航路であった)を航行していた千石船が海賊に襲われました。

 

 船の船長、長九郎は水夫を指揮して、必死に防戦しましたが多勢に無勢で力尽き、ついに敗れました。

 

 傷ついた船長の長九郎はやっとのことで向山の黒崎鼻の近くの浜辺に流れ着き息が絶えたのです。

 

 長九郎は死ぬ間際にこの地で船を持つものには七生祟るといって、手に持っていた榊の枝を地面に突き刺して、絶命したという。

 

 地元の人が哀れに思い、近くの一つの鼻に長九郎を葬り、墓標代わりに浜辺にあった石の自然石を置いた由。

 

 無念の思いで死んだ長九郎の執念が乗り移ったのか地面に突き刺した榊の枝は根づき、年を経るにつれて大きくなった。

 

 その後地元の人達はこの鼻を「長九郎鼻」と呼ぶようになったそうです。

 世は移り変わり、昭和の初期頃にはこの榊の木は地方では、まれに見る巨木になっていたと地区の古老はいう。

 

 いつの頃枯れ死したものか現在では見当たりませんが長九郎鼻は昔のままの姿です。


はさみ岩 

 

神の峯の登山道の七合目位の所に、挟み岩というのがある。大きな岩が向き合って立っている間に、やれやっと一人通れるくらいの小道があった

 

 昔々、大昔、貧乏な農家の娘が急に目がみえなくなった。町の目医者にかかるお金も無いので、峯のお薬師様にお願いしようということになって、二親が盲目のこの手を引いてお参りしたげな。

 

 お堂の隅の柱に女の長い髪の毛の束が二つ三つぶら下がっておった。女の命の髪の毛を切ってお願いしたんじゃ。「娘やお前も切るかい」と母親が言うと「切って信心になるなら切ります」と娘はいうたそうな。

 

 あくる日、切った髪を持って三人はまたお参りしたげな。七日は満願の日じゃ、おこもりすることになった。お灯りあげて、一生懸命拝んでおったら、おおけな男が入ってきた。

 

 ぬしとじゃ。賽銭箱を取って、親子の着物をはいで「これも銭になるんじゃ」いうて柱の紙のも懐へ入れた。女の髪の毛は町へ持って行くとよい値になるそうな。

 

 ぬしとが山をおりだすと、山はぶるんぶるん震えだし、はさみ岩のところまで来ると、もう立っているこもできんようになって、大きな岩がぎちりぎちりと動き出してぬしとをはさんでしもうたげな。

 

 おこもりした親子三人は、ほうろくの中の豆みたいに一晩中お堂の中を転げまわったげな。

 

 地震が収まって夜が明けたとき、娘の眼は開いて、よう見えるようになっていたといの。

 

 そしてはさみ岩の所に三人の着物と髪の毛が落ちていたげな。


よはかり

 

神ノ峯には、よはかりと言うもんがいるんじゃげな。よはかりは山の上を廻りながら、島中の様子をよう見ようるんじゃげな。

 

 よはかりは時々子供の姿になって里へ降りてくるらしい。晩げにの、子供が輪になって「中の中の小松さん、だれをてえて、まいろうにゃ。ぜにを一文ガァラガァラ。後ろの正面だあれ」いうてのう、手をつないでぐるぐるまわって遊んどると、いつもの数より一人多いことがある。その時は気がつかんのじゃが、後になって確かに一人多かったように思われることがある。

 

 そりゃぁ、よはかりが子供の中に入って遊びよったからじゃ。子供がみんな行んでしまうと、こんどは背戸口から家々の台所をのぞくんじゃそうな。

 

 貧乏と病気で泣いている家では、よはかりも涙をこぼすんじゃげな。

 

 天に運気の針いうもんがあってのう、その針の方向に当たっている家に運勢が集まっとる。「よはかり」は運の悪い家へも運気の針をむけようとて、一生懸命になっとるんじゃが、なかなか思うようには動かんが長い間には、時々コトッコトッと動くこともあるんじゃげな。

 

 人間一生涯には運気の針が廻ってくる時があるんじゃ。「長者は三代「続かん言うわいのぅ」よはかりが運気の針を動かしよるじゃけんのお。

(大崎上島町史より)


のおくり兵衛と運ヶ峯の話

 

 原田、瀬井、大串に境を接するところに瀬井山または井浜山と呼ばれる山があります。瀬井や、大串の方から見ると、頂上がわかる山ですが、原田側から見ると、なだらかな尾根が広がり牛の背のように見えるのです。

 

 昔は、背の低い松や雑木が、まばらに生えているガラガラのはげ山でしたが、現在は治山、治水のため植林されたり、一部は開墾されて、みかん畠になっていて、昔日の面影はありません。

 この山は別名運ヶ峯、または運ヶ見山と呼ばれて次のような話が伝えられています。

 

 昔、むかし原田の里に弥兵衛という一人の男が住んでいました。弥兵衛は、のおくり者(怠け者)で、ろくに仕事もせず、毎日ぶらぶらして過ごしていました。

 

 村の人達は、こんな「のおくり者」は誰もあいてにせず、弥兵衛のことを「のおくり兵衛」といって、本名の弥兵衛と呼ぶ者はいませんでした。

 

 しかし、弥兵衛はいこうに気にせず、平気で会う人事にわしには運が向いてくるんじゃ。といって相も変わらずぶらぶらしていました。「のおくり兵衛」といわれる弥兵衛にも一つだけ取り柄がありました。

 

 それは、日頃から神峯のよはかり様を大層信心しており、朝起きると、きまって峯に向って礼拝し、「わしに運を授けて下され」と、よはかり様にお願いしていました。

 

 ある日の晩のことです。寝ていた「のおくり兵衛」の枕元に峯のよはかり様がお立ちになり、「こりゃ弥兵衛お前は、ろくに仕事もせず、毎日ぶらぶら遊んでばかりしって、運が向いてくることばかり、わしに願っておるが、それは大変な心違いじゃ。運というものは、自分で一生懸命に働いて掴むもので、向こうからやってくるもんじゃない。

 

 しかし、お前の信心にめでて、一つだけ運をかなえてやる。お前の運が授かるところを教えてやるので、明朝、日の出るとき。その場所に行ってみるがよい。その場所は、瀬井山の一番高いところじゃ。」とお告げになりました。

 

 次の朝、「のおくり兵衛」は夜の明けきらぬうちに家を出て、瀬井山に登り、原田側からみて一番高いと思われた場所に日の出るときに立って、あたりをみると、どうしたことか、別の場所が高いようにみえるので、そこに立ってみると、また別の場所が高いように見えて、とうとう、探し当てることが出来ないうちに、日が高くなってしまいました。

 

 その次の朝は、昨日にこりて、原田側からみて、一番高いと思われるところを十分見極めて登ってみたが、やっぱり、昨日と同じように山に登ると、一番高いところがわからずじまいでした。

 

 その次の日も同じごとで、「のおくり兵衛」は、とうとう運の授かる一番高い場所を探し当てることが出来ませんでした。

 

 しかし、「のおくり兵衛」は運の授かる一番高いところを探しているうちに、朝日を受けて、キラキラと光る美しい石を見付けては、ひろって家に持って帰っていました。

 

 ある日のこと、「のおくり兵衛」の家の前を通りかかった旅人が、このキラキラ光る美しい石をみて、「売ってくれ」といって、「のおくり兵衛」が今まで見たこともないほどのお金を置いて石を持って帰ったのです。

 

 その後も、「のおくり兵衛」は、石を拾って帰っては旅人に売っていました。 この話を村人たちが聞いて、この光る石を探しに瀬井山に登りましたが、毎日朝早く「のおくり兵衛」が自分の運が授かる場所を探すため山に登り、この時朝日を受けてキラキラ光る良い石ばかり拾って帰るので、村人が探しに登ったときには、光る石は見当たりませんでした。

 

 このキラキラ光る美しい石のお蔭で、「のおくり兵衛」は大金持ちになり、のちに「運ヶ峯の長者」といわれるようになり、いつしか村人達は、井浜山を「運ヶ峯・運ヶ見山」と呼ぶようになりました。

 

★後記このキラキラ光る美しい石とは、水晶のことで、今でも山を探すと小粒のものが見付けられます。水晶山の呼び名も水晶が出ることによるものでしょう。


海から来た娘

 

 昔々、大昔、ここらは海じゃった。ずっと奥の山の根っこまで海じゃったころのこと、吉枝の里に七という男が住んどったげな。

 

 百姓仕事の合間に畑の肥にしようとて流れ「もば」を拾いに小舟で出かけた。そのもどりに釣り糸をたれながら、相賀島の沖あたりまできて、糸を上げたところが、今までに見たこともないようなきれいな魚があがってきた。手拭をのばしたほどの長さで、細長い体は赤や青や黄や緑や紅の色をみんな擦り付けたようにきれいじゃった。

 

 その肌のつややかなこと、玉の肌とはこんなのを言うのじゃろうかと思われた。七は魚がいとしゅうなって、我が家の見える入江のあたりまで来たときに魚をだきあげて「あの奥の一軒家がわしの家じゃ、このままいんだら、お前はやかれて食われてしまうんじゃ。ここから放すけにお前は、いねえや」そう言うて海へそっと放してやった。

 

 それから、大分たって雨の降る夜じゃった。人の声がするんで、七が戸を開けてみると若い女が立っておって、路に迷うたんで休ましてくれと言うた。

 

「びしょぬれじゃ。これを着かえんさい。」と七は自分の着物をかしてやった。

 娘はさんごの櫛で、長い長い髪をときながら、「私は偉いお方のお屋敷に奉公している者でございます」というた。

 

 朝方娘は名残りおしげにかえって行った。

 

 しばらくたって、その晩も雨の降る晩じゃったげな。

娘が、こぶや、ひじきや、あわびやら、ぎょうさん持って来たげな。そして、きれいな玉を一つくれたといの。

 

 若い者同士で一晩中あれやこれや夢みたいなことをしゃべり合うて、陽の出んうちに娘は帰っていった。

 

 娘は来るたんびに、眼のさめるようなきれいな玉を一つずつ置いていった。

 

 ある日、七はその玉を町から来た商人に見せたところが、商人は目玉をむいて、言うたげな。「売ってくれ、銭なら何ぼでも出す。お前の欲しいものは、何でも持ってきてやる。」

 

 次に娘が来たとき、七は商人の話をして、「わしは大金持ちになったど。もうすぐあの丘の上にきれいな家ができる。きれいな着物もよけいできる。それには玉がいるんじゃ。こんど来る時にゃ、もっとよけえ玉を持って来てくれ」言うたげな。

 

 すると、娘は悲しげな顔をして、「あなたの心は銭のために、にごってしまいました。玉をあげたのが間違いでした。」と言うたげな。

 

 丘の上の家は出来上がったが、七は浜の古い家の門口に座って、いつまでも娘の来るのを待っていたといの。


厳島神社の天狗松

 

 大串外浜の厳島神社境内に、かって樹齢数百年におよぶ数本の老松があった。

 

 その中の二本の老松の太い枝が見上げる空中で交叉しており、片方の枝は幹より20~30センチ程の所で鋭利な刀で切断されたように分離しているが、交叉した所は堅く融着して幹と枝との切断は全く影響なく梢枝は良く繁茂して、その形はすこぶる奇観であった。故に里人天狗が鋭利な刀で切断したという。

 

「またこんな話もある」

   神通力を持った天狗が涼しい高い松の上で昼寝をしようと思ったが、寝場所の具合が悪かったので二本の老松の太い枝を怪力で捻じ曲げて結んで寝場所を作ったという。

 

  天狗が安芸の天の橋立とも呼ばれていた外浜の景勝を高い松の木の上から眺めるのに、二本の太い枝を捻じ曲げて結び、腰をかけて眺望を愛でていたことから、天狗の腰掛松ともいわれた。惜しいことに、天狗松を始め境内の老松は昭和40年代に松喰虫の被害により次々と枯死し現在は一本も残っていない。

 

 しかし巨松天狗松の伐株は今も残っており往時を偲ぶことができる。この天狗松は昭和50年代の初期に切り倒された。

   そのとき年輪を数えたところ三百数十年を経ていたという。


山王さんの話

 

昔、むかし、その昔、山王さんはのお、七々見に祀ってあったげな。ところが沖を走る舟を止めたり、ひっくり返したり、悪さをしてしょうがないんで、村のもんが話しおうて、海の無い山ん中がええじゃろうと言うことで、じごうさんに祀ったげな。

 

 ところがまた、ずうっと沖に海が見えるもんじゃで、またぞろ遠くの海を走っている舟に悪さを始めさったんじゃ。

 

 また、また、村のもんが寄りをして話しおうて、今度こそ海が見えんところにしようと言うことになって、山王池の上の山に祀ったんじゃ。ところが今度は、池のはたを通るもんを池に落としたりして、悪さがなおらんじゃったげな。

 

 村のもんは、どがいにしたら、ええんじゃろうかと弱ってしもうてのお、寄りをして話おうても、なかなかええ考えが出んじゃった。そしたら、誰かが水のない別曽山がええんじゃないかと言うことで話が決まり、今の山王さんのある場所に祀ったところ、お気に召したのか、ええあんばいにおとなしゅうなりんさったんじゃ。

 

明治元年 山王権現社から日吉神社に社号改称(神仏分離令)


たぬきにばかされた話 

 

 むかしのお、「にいばりたぬき」と「おおじりたぬき」がおっての・・・

 よお、人を化かしとったもんじゃ。

 

中野の祭りによばれていって、ごっつおをよおけもろて、晩になって帰りょって「たぬき」に化かされて、ごっつおを取られたもんがよおけおった。

 

 酒にようて帰っとるもんは、「たぬき」にばかされて一晩中、川原の中を歩き回っておって、夜が明けて、やっと気がついたもんもおったんじゃそうな。

 

 ほかにも「とこうだたぬき」がおったんじゃ。

 

 瀬井のもんが山王さんの祭りによばれて来て、ごっつおをえっともろうて晩になって、帰りよって「とこうだ」で「たぬき」にごっつおを取られたり、酒にようたもんがばかされて、朝まで田の中で「たぬき」と一緒に酒盛りじゃと言うて、「たぬき」のしょんべんを飲まされておった ちゅうこっちゃ


山王池のえんこう

 

 むかし、山王池に「えんこう」がおってのお、日が暮れて池の端を通りよったら、えんこうが出て来て相撲を取ろうちゅうては、池に引っ張りこんどったんじゃげな。

 

 皆んな、いびしゅうて日が暮れたら池の端を通るもんは一人もおらんようになってしもうた。

 

 その頃、原田の里に、又七ちゅうて親孝行な若いもんがおったんじゃ、父親が早よう、のおなったもんで、年取った母親と二人してちいとばかりの畠や田を作って暮らしとった。

 

 あるとき母親が、あんばいが悪うなって、寝付いてしもうたんじゃ。

 

 又七はえろう心配して、毎日畠の行き帰りには久瑠間寺にお参りして、仏様に母親の病気が早よう治るようにお願いしとったんじゃが、その日は山王さんにもお参りしようと思って日が暮れかけとったんじゃが、親孝行の又七のことじゃで母親の病気をなおしたい一心から山王池のえんこうのことは、忘れてしもうとったんじゃ。

 

 山王さんにお願いして、山王池の端まで降りて来たときゃ、もう暗うなりかけとったんで、又七はえんこうの出ることを思い出し、早よう帰りゃんにゃあ、えんこうが出ると思うて、かっけり出したんじゃが、もう遅かった。

 

 案の定、えんこうが出て来て相撲を取ろうと言うてつかまえられてしもうた。

 

 又七は、よお泳がんだったんで、ここでわしが、えんこうに池に引っ張り込まれて、おぼれてしもうたら、病気の母親を看るものがおらんようになると思うてのお、えんこうにわけを言うて帰らせてくれちゅうて、一生懸命頼んだんじゃが、えんこうはこらえて、くれりゃあせんだった。

 

 そこで又七は「今晩帰してくれりゃあ、お母あを人に頼んで明日の晩にゃあ必ず来るけん、帰してくれ」ちゅうて何べんも頼んだら、えんこうがやっとこらえてくれてのお、「そいじゃあ、今晩は帰えらしてやるけん明日の晩にゃあ必ず来いよ。もしも来んだったら、お前の田の底を抜いて水を干してやる」ちゅうて放してくれたんで、又七は転げ、転げて、家まで帰ったんじゃが、母親に心配かけたらいけん、思うて家の前で気を取り直して入り。又七の帰りを待っとった母親に仕事の段取りが悪うて、おそうなってしもうたと言って安心させたんじゃが、あくる日はえんこうと約束したことが心配で仕事が手につかんのじゃ。

 

 又七は、思い余ってその頃、徳の高かった久瑠間寺の和尚さんに相談に行ったんじゃ。

 

 そしたら和尚さんがのお、小僧さんに晩に炊くおかずの高野豆腐を持って来させて何やら筆でおまじないのようなものを書いて又七に渡して、「えんこうと相撲をとるとき、これをえんこうの頭に乗せりゃあ、必ず勝つけんのお、心配するな」といんさった。

 

 又七は和尚さんが勝つちゅうて太鼓判を押してくれたんで、安心して仕事をしとってのお、日暮れになって山王池の端に行って、「又七が来たで、えんこう出て来い」と言うておらんだらえんこうが、「又七よう来た、待っとたんじゃ」ちゅうて池から上がって来たんで又七が「相撲をとって、わしが勝ったら田の底を抜かんのじゃな」と念を押したら、えんこうが「お前が勝ったら抜かん」と言うたげな。

 

 そいじゃあ相撲を取ろうと言うで、組み合ったんじゃが、えんこうは背が低いもんで、又七の腰に組みついた。

 

 その隙に又七はふところから和尚さんにもろうた高野豆腐をえんこうの頭に押し付けたんじゃ。ところが、それまで元気のよかった、えんこうが急にへなへなとへたり込んでしもうたんで、又七はびっくりしたんじゃが、久瑠間寺の和尚さんがいんさったのは、ここじゃな、と思うて帯をほどいてえんこうをしばりあげて、山王さんの鳥居にゆわへつけたんじゃ。

 

 そしたらえんこうが、「又七こらえてくれ」ちゅうて頼むんじゃが、今までさんざん人を困らせたえんこうじゃで、そう簡単にこらえてやりゃあせんと又七は思うてのお、「いんにゃあこらえてやりゃあせん」ちゅうて、そのまま帰りかけたところ、えんこうが「これからもう悪さはせんけん、こらえてくれ」ちゅうて涙を流して一生懸命頼むんで、根が優しい又七は可哀相になり、「それ程言うんならこれえてやるが、これから悪さはせんな。もしも、悪さをしたらまた、久瑠間寺の和尚さんに頼んでおまじないをしてもらうぞ」と念を押したら、えんこうが「もう絶対に悪さをしゃあせん」と言うたんで帯をほどいてやった。

 えんこうは喜んで山王池に帰りよった。

 

 それからちゅうもんは、えんこうは陸に上がったら頭の皿の水が渇いて力が出んようになって、悪さが出来んようになったげな。


沖浦のえんこう(河童)

 

 昔、むかし、沖浦の庄屋の作男が牛を使って田を耕しておったら、えんこうが、海から上がってきて、相撲をとろうと言うた。

 

 えんこうの神通力を知っていた作男は、「お前がさか立ちして見せたら、相撲をとってやる」といった。

 

 根が単純なえんこうは、言われるままに逆立ちしたので頭の皿の水がみんなこぼれてしもうた。

 

 そこで作男はえんこうと相撲をとって、えんこうを投げたげな。それから、えんこうを綱でしばって、牛と力比べさせた所が、牛が勝って、ずるずると庄屋の屋敷の方まで引っぱっていった。

 

  作男はえんこうを台所の近くにあった立臼にしばりつけておいて、また田へ行った。

 

 たまたま、台所の片付けをしていた下女がぬれた手を振った。その滴がえんこうの頭の皿にかかったので、えんこうは神通力を取りもどして、ずるずるっと立臼を引きずって海に帰っていったんじゃげな。

 

豊田郡誌・大崎町史より

 


新治たぬきに御馳走の肴を取られた

 

おばばが若嫁の頃だった。瀬井の親類の建家によばれたんじゃ。家のほかのもんは、用事があったもんで、その頃まだ若嫁じゃった、わしに行ってこいちゅうてこって、わしゃあ子供を連れてよばれて行った。

 

 大工の棟梁は原田の人だったんで、帰えりにゃあ連れになってもらえるんじゃろうおもうて、よばれとったんじゃ。

 

建家で、ごっつおも、えっとあって、根が酒好きの棟梁じゃけん、中々腰を上げようとせんのじゃ。

 

 日暮れも近うなり、わしゃあ、しょうがないんで先に帰ることにしたんじゃ。

 

 そしたら親類(しんるい)のばばさんが、帰るんならごっつおを包(つつ)んでやるちゅうて、のお、床田たぬきは肴(さかな)が好きじゃけん取られんようにと言って丁寧(ていねい)に包(つつ)んでくれたんじゃ。

 

床田を暗うならんうちに通おりゃんにゃ、いけんと思うてのお、こまい子を背負うて、もろうたごっつおを手にしっかり持って、大きい方の、子どもの手を引いて早よう歩けやと言うて子どもを急がせたんじゃが、なんせ、瀬井を出るときにゃあ、もう日暮れじゃったけん、のお、なんぼ急いで歩いても床田に来たときにゃあ、もう暗ろうなりかけとった。

 

 ごっつおを持ち替えたらその隙にたぬきがごっつおを取るちゅうと言うんで重とうて手がしびれるのを辛抱して、子どもを急がせて床田の谷底の細い暗らい道を一生懸命歩いてのお、やっと新治まで帰ってきたときにやあ手がしびれてしもうとった。

 

 ここまで帰りゃあ、そこらに家の灯が見えるけんもう大丈夫だろうと思うて、一休みして、ごっうおを持ちか換えてやっとの思いで家に帰ったんじゃ。

 

 家のもんに、よおけ、ごっつおをもろうて帰ったんで食べてくれちゅうて、しっかり包んどったふろしきをほどいてみたら、焼魚やさしみ刺身がのおなっとった。

 

 こりゃあ新治までもどったとき、やれやれと思うて休んだ時、新治たぬきに取られたもんじゃのお。

 

 新治たぬきもよお人を化かしたり、ごっつおを取るちゅうことは知っとたが、そのときゃ、床田は暗ろうて、いびしいところじゃったし、床田たぬきのことばっかしか考えておらんかったんで、新治たぬきのことは忘れてしもうとった。

 

 それにしても、たぬきちゅう奴っあにくらしいが、うまいことごっつおを取るもんじゃと感心したんじゃ。

たんじゃ。


尾尻たぬきに取りつかれた話

 

 うちのおじいさんが、まだ若いときの話じゃ。丁度暑い夏の頃じゃと言うとった。その頃、おじいさんは大西の塩浜の浜子をしとった。

 

浜子ちゅうのは、外で働くんで冬は寒いし、夏は暑いんじゃ。冬は仕事をしとったら体が温もるが、夏の暑いのはどうにもならんので朝早よう涼しいうちに仕事をするようにしとったんじゃ。

 

 それで、朝暗いうちに家を出て塩浜の仕事をしとった。陽が出りゃあー暑うなるんで浜子の皆んなは真っ裸で仕事をするのに、うちのおじいさんだけは綿入れの胴着を着込んで仕事をしとって、まだ寒い、寒いと言うとったんじゃげな。

 

 浜子のもんは皆んなびっくりしとったそうな。そこで、浜大工の棟梁が「升やん、どがいしたんじゃ、この暑いのに綿入れの胴着なんか着込んで・・・」

と言うんで、おじいさんは「どがいも、こがいもありゃせん、寒うて寒うてどがいにもならんのじゃ」と言うたら棟梁が「そりゃあ、おかしいで、普通のこっちゃあないでぇー 何か取りついておるんと違うか。うちの近所によう当たる拝んでくれるところがあるんじゃ、そこで一辺拝んでみてもろうたらええ」

と教えてくれんさったんで、おじいさんは早速その拝んでくれる人の所に行って拝んでもろうたんじゃ。

 

 そしたら、たぬきが取りついとるちゅうんじゃ。そのたぬきが言うのにゃ

「わしは、おおじりたぬきじゃ」と言うて、「人間は昼間働いて夜寝とるが、わしらたぬきは夜働いて昼間寝とるんじゃ。朝方わしが、寝穴に入ってやっと寝ついたときに升の奴は毎日朝早ようからガラン・ガランと音をたてて、わしの寝穴の前を通りよる。やかましゅうて、寝とらりゃあせん。これが晩なりゃあ、ばかしてやるんじゃが、夜明け前じゃあどうにもなりゃあせん。そいで、取りついてやって、暑いときに寒うしてやって困らせてやっとんじゃ」と言うたそうな。

 

 そいでなぁー、おじいさんは

「これから大きな音は出しゃあせんで、こらえてつかあさい」と、ことわりを言うて、お供え物をして帰ったんじゃ。そしたら、寒さものおなって普段と変わらんようになったんじゃげな。

 

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「おばあさん、ガラン・ガラン言う大きな音ちゅうのは、何の音だったんかいのぉー?」「それはのお、昔は今と違うて巻きタバコはのおて、きざみタバコだったんじゃ。うちみたいな貧乏人はのお、ええタバコ入れは、よお買わんで、蓋のついたこまい木の箱を作って、きざみタバコを入れてキセルは竹の筒に入れて、どっちも紐をつけて腰の帯に差しておったんじゃ。これが歩くたんびに、ぶつかってガラン・ガランちゅう音をたてとったんじゃのぉ。夜明け前の静かなときじゃけん、余計大きな音のようにたぬきは思うたんじゃろうで・・・」


婆の岩

 

 長松と呼ぶ白砂の浜がある。昔は海水浴に好適の地であった。

 

この浜の突端に怪異な形をした大きな岩が満潮時には姿を消し、干潮時にはその大きな姿を海上面に現す。島の人たちはこの岩を、「婆の岩」と呼んでいる。

 

 いつの頃のことか、瀬井の里に貧しい老婆が住んでいた。

ある夏のこと、厳しい日照りが続き、青物はもちろんのこと食うに事欠く有様となった。こんな時、島の慣わしとして、人々は海の魚貝を漁さって食料の足しにして飢えをしのんでいた。

 

 そうしたある日、瀬井の老婆は、長松の浜を漁り尽くして、これという獲物もなく、疲れた体を浜の突端で休めていた。

 

 ふと見ると干潮のため、大岩の根っこが干上がっている。そのくぼみに頭の大きさが五升樽ほどもある大蛸が長々と手足を伸ばして寝そべっていたげな。 肝をつぶすところだが、気丈な婆さんはなんとかしてこの大蛸をとってやろうと考えた。

 

 次の日。同じ干潮時を見計らって婆さんは、研ぎあげた鎌を持って大岩に近づいた。蛸は前日と同じ姿で眠っていた。婆さんは恐る恐る大蛸に近寄り、大足を一本切り落とし、喜んで家に持ち帰った。一人では食べきれぬほどの大足である。欲深いばあさんは、誰にも分けてやらず余ったところを軒先に干しておいたげな。

 

 次の日も、また婆さんは大岩の影に言った。そして足を一本切って帰って行った。こうして、七日の間に七本の足を婆さんは家に持って帰ったそうな。

 

 さて、八日目、婆さんは最後の一本を切り取るため浜へ出て行った。岩のかげには例の大蛸が相変わらず眠っている。婆さんがいつもの通り鎌を持って切りつけたとたん、大蛸はその最後の一本の大足で婆さんの体を一巻き二巻きすると、そのまま海の中に沈んでいってしまったそうな。

 

 婆さんの悲鳴に人々が、駆けつけた時にはもう婆さんの姿は見当たらなかったげな。

 

二三日たって、この婆さんの着物が干潮時の大岩の上にのせてあったそうな。 いつの頃よりか村人はこの岩を「婆の岩」と呼ぶようになった。 旧中野村の古い図面を見ると、字長松の四八二九番に海中の一島ならぬ一岩の記載がある。

(豊田郡史・大崎上島町史より)


いぼとり地蔵

 

 今より百五十年程むかしの話じゃ。原田のあるところの若い夫婦に、可愛らしい一人っ子の女の子供がおったんじゃ。

 

 ところが、この女の子の可愛い手にのお、こまい「いぼ」が出来たんじゃ。始めのうちは、なんの気にもしておらんじゃった。ところが女の子が大きゅうなって娘らしくなってくるんと、おんなじように手の「いぼ」も段々大きゅうなって広がってくるんでのお、女の子は、恥ずかしいちゅうて家の中にひきこもって、外に出んようになったんじゃ。

 

 夫婦の心配は、一通りのこっちゃあ、のおなってきてのお、どがいにしたら良いもんじゃろうかと頭をいためとった。

 

 それからちゅうもんは、朝な夕な、神様や、仏様に娘の「いぼ」が一日も早よう落ちますようにと、一生懸命お祈りしておった。

 

 また、近くの大地原のお地蔵さんにも、毎日お参りして、お願いしとったんじゃが、娘っ子の「いぼ」は一向になおらんじゃった。

 

 

 ところがある晩のこっちゃった。寝ていた母さんの夢枕に大地原のお地蔵さんが、お立ちになりんさってのお、「明日の朝、娘っ子を連れて地蔵までおいでんさい」と、お告げになられたんじゃそうな。

 

 

 母さんは早速、父さんに、夢のお地蔵さんのお告げを話したんじゃ。父さんは「そりゃあ有難いこっちゃ、すぐに娘を連れてお参りしよう」ちゅうてのお、夜の明けるのを待って、庭に咲いとったお花を娘っ子に持たせて、三人連れだってお参りしたんじゃ。

 

 娘っ子がお地蔵さんの花立に、家から持ってきたお花を挿したとき、花立の水があふれて手にかかりよった。

 

 それからちゅうもんは、手の「いぼ」が日増しにこもうなってきよって、しまいには、のおなってしもうてのお、もとのきれいな手にもどったんじゃ。

 

 親子三人は、大そう喜んで、大地原のお地蔵さんのお蔭じゃちゅうて、娘っ子は母さんと一緒に、お供えとお花を持って、お礼参りに行ったんじゃそうな。

 

 その後、このことが村中に伝わってのお、誰が言うともなく「いぼとり地蔵」と呼ぶようになり、霊験あらたかなお地蔵さんじゃと言うてのお、よおけの人がお参りするようになったんじゃ。

 

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あとがき

 この民話に出てくる「いぼとり地蔵」は当初、清光寺西側、大地原の川を渡る橋のたもとの道路脇に安置されていましたが、大正10年(1921)1月、現在地に移転されました。

 

 昭和の初期頃まで「いぼ」ができたときは、夜明けに人に合わないようにお参りして花立の水を頂いて「いぼ」につけると、どんな「いぼ」でも落ちると信じられ、いぼ取り地蔵と呼ばれて信仰されていました。


仏峠の地蔵さん

 

 昔はのお、仏峠を「まもの峠」と言うとったんじゃ。峠の道は、郷から畑倉や吉枝の方に行くのに通る道じゃったが、山ん中の細い道で、まわりにゃあ・・・大きな木がようけ生えとって昼間でも暗うていびしかった。

 

 その上「まもの」が出てきて、よお、悪さをしよって通る人をたまげさしたり、たまにゃあ、さろうて行きよった。

 

 見んながいびしがってのお、よお通らんようになって困ってしもうたんじゃ。そこで、村のもんが寄って、どがんしたもんじゃろうかと話とったが、ええ思案が浮ばんじゃった。

 

 そこへ、たまたま旅のお坊さんが通りかかって、その話を聞かれ「それはお困りじゃろう。拙僧がそのまものを封じ込んで進ぜよう」と、いんさってのお、峠にこもって、お念仏を唱えながらお地蔵さんを刻みんさったんじゃ。

 

 それで、村のもんに「峠にこの地蔵さんをまつりお念仏を唱えて峠を通りんさい」と、教えられてのお、どこかへ行きんさったんじゃ。そこで、村のもんは峠にお堂を建てて地蔵さんをまつり、毎年おまつりをしたもんじゃ。

 

 そしたら、それからちゅうもんは、「まもの」が出んようになって、皆んなが安心して峠を越えられるようになったんじゃ。 それから、皆んなが旅のお坊さんのお蔭じゃ、あのお坊さんは、ただのお坊さんじゃあるまいのお、仏様の化身じゃあなかったんじゃろうか。仏様のお蔭じゃと言うて、いつとはなしに仏峠と言うようになったんじゃ。

 

地蔵菩薩像は慈覚大師作とのいいつたえがある。


矢木のたぬき小屋

 

 大串、矢木の山腹に巨石が幾重にも積み重なった巨大な奇岩があります。語源は定かではありませんが、昔からたぬき小屋と呼ばれています。

 

 山麓から見上げると、今にも頭上にこの大岩石が、落下してくるような錯覚におそわれます。

 

 また、巨岩上からの矢木灘の眺望はすばらしいが、足元を見下ろすと、大岩石もろとも数百メートルの海辺まで急傾斜を転落しそうで足がすくむような気がします。

 

 真偽の程は定かでありませんが、昔、この巨岩の洞穴に大崎たぬきの頭領が住んでいたそうな。

 

 いつの頃か伊予のたぬきが大挙して大崎島に攻め込んできたとき、大崎のたぬきを指揮して、伊予たぬきを撃退したという。


矢木の九九の壺

 

 矢木の海岸に九九の壺と呼ばれる大小合わせて十指に余る海蝕洞穴が、岬と岬の砂浜や絶壁の波打ち際に点在し、その奇勝は大崎島においては他に、比類のない一台景観です。

 

 洞穴は種々色々ある、大きなもの小さいもの、抜け道があるもの、奥が小さくては入れないもの、岬の付け根にある穴を潜り抜けると、眼前に砂浜が現れ、また絶壁に洞穴が点在する海岸がある。

 

 目を前方に転じると、遠くに岬が重なって続き、海面にその影を落としている風景は一幅の絵のようです。まさに大崎島随一の大景観と言って、良いのではないでしょうか。いつの頃からの言い伝えなのかわかりませんが、九九の壺には次のような話があります。

 

 あるとき一番深い洞穴に犬を追い込んだところ、三年を経て東野村の、洞道の洞窟から出てきたげな。

 

 そのとき、犬はやせこけて毛は抜け落ち、尻尾は腐りかけていたと、まことしやかに、語り伝えられています。


牛が浜の夫婦岩旧明石方の話)

 

牛が浜というところに大けな岩がうまい具合に並んでおってのお、

旧暦の大晦日には、この大きな岩がお互いにより合って、年を越して正月を迎えるんじゃそうな。

 

 そうして正月が過ぎるといつの間にかこの二つの大岩は元のように離れているげな。

豊田郡・大崎町史


八幡さんの天狗の足跡(旧明石方村の話)

 

八幡宮の裏山の眺めはすばらしい。

 

 その昔、神功皇后が征韓のおり、明石の沖に軍船をとめられて、この山の登られ眺望のすばらしさを愛でながら、御髪をすかれたことから「御串山」と名づけられ、神功皇后を祭るお宮が建立され「御串山八幡宮」と名づけられたと伝えられる。

 

 御串山の屋根の巨岩が連なるその一角に、天狗の足跡と呼ばれている凹みがある。

 

 丁度天狗の一本歯の下駄の歯の跡に似ていることから呼ばれるようになったものであろう。

 

 話の元は定かでないが、その昔御串山に天狗様が住んでおった。

 

 明石の里は温暖で平和な村であったそうな。

 

 天狗様は、くる日も、くる日もすることがなく退屈しとった。

 

 それで眺めのよい御串山の岩の上に立って関前灘に広がるすばらしい眺望を、あきもせず、日がな一日中眺めとった。

 

 ところがある日のことじゃっ、明石の村が始まって以来の一大事が起こりよった。伊予の海賊が大挙して関前灘を渡って明石の沖に押し寄せてきたんじゃ。

 

 村は上を下への大騒動じゃ。御串山の岩の上に立って沖を眺めとった天狗様は、この有様を見て「ようし、ここがわしの神通力の見せどころじゃ、村のもんに見せてやろうわい」といって、岩の上で両足をふんばり、持っていた「天狗のうちわ」で、ひとあおぎすると、たちまち大風が起こり、伊予の海賊船はひとたまりもなく沈んでしもうたげな。

 

 そのとき天狗様があんまり力を入れてふんばったので、一本歯の下駄の歯が岩に喰いこんで穴があいたんじゃげな。

 

 天狗様の神通力で難をまぬがれた村人は、そのご八幡様と同じように天狗様をあがめて、天狗様の足跡じゃいうて大切にしてきたんじゃ。

 

 


さいのかわら

 

はさみ岩から少し登った所に左の林に入る小路がある。細い小川が流れていて飛び石がある。渡って少し行くと小さな井戸がある。

 

「ちょうずがわ」という。「かわ」とは井戸のことで、川は「かあら」というた。小さな柄杓があって、登山者はここで手を洗い、口をすすいで身も心も清めて登った。柄杓の見あたらぬ時は、ぼての葉を丸めて水を飲んだ。

 

この南側が賽の河原である。小石を三重五重と積み重ねた石の塔があちこちにあった。幼い子供を失った母や、祖母が黙々と石を集めて積み重ねていた。そこで歌われる「さいのかわら」の和讃はことさらに哀れであった。

 

これは此の世のことならず、死出の山路の裾野なる。さいの河原のものがたり・・・二つや三つや四つや五つ、十にもたらぬ稚子がさいの河原に集まりて

 

 父こひし、恋し恋しと泣く声は、・・・・河原の石を集めては それにて廻向の

塔を積む、一重つんでは父のため、二重つんでは母のため、三重つんでは古里の・・・・

 

いつの代でも、失った我が子の世での幸せを願う親心はかなしいものよのう。死んだ子供に代わって、その子と一緒に供養の塔を積む。積んでは崩れ、崩れてはまた積みなおす。

 

ここで一人石を積んでいると死んだ子の声が聞こえるともいうし。

また、連れ合いの声を聞いたという人もあったそうな。

 

大崎町史より)

付 記

 

 登山道より「さいの河原」に入る場所にコンクリート製の貯水槽が造られ、また谷の奥には砂防提が建設されたため、谷間の様子は一変し、さいの河原は昔日の面影はない。


弓張藤右エ門と化け猫(沖浦村)

 

 昔、むかし、沖浦と木江との境の鉢伏山に、夜な夜な魔ものが現れて、通行人にわるさをして困らせておった。

 

 藤右エ門は来島城主の家来で、沖浦に住んでいたが、この噂を聞いて化け物退治を思い立ち、ある夜二十四本さした矢筒を負うて出かけていったげな。

 

 山に着いてみると、噂にたがわず彼を馬鹿にしたように怪しい光がゆらいでいたそうな。

 

 「おのれ妖怪め」と腕に覚えの豪弓を放ったが、矢はただ「かっかっ」と音を立てるだけで何の効果もなかった。

 

 ふしぎふしぎと我が家に帰って思案にふけっていた藤右エ門は、夜になると我が家の猫と茶釜の蓋がなくなっていることに気がついた。

 

 次の夜、彼は定数外に一本たして二十五本の矢を背負って出かけて、前夜と同様に怪物に射かけたそうな。

 

 矢は「かっかっ」と音を立て二十四本までは、はね返されたが、定数外の最後の一本は正しく手答えがあったので行って見ると、我が家の飼い猫が茶釜の蓋を持ったまま倒れておったそうな。

 


草木のじごく谷の鬼

 

 昔、むかし、明石のお百姓さんが、草木の山深い谷間の畠で仕事をしていて、おそくなり、気がついてみると陽は権現山の峰に沈みかけていました。

 

 お百姓さんはあわてて、しまい日暮れて牛を追いながらいそいで家路につきました。

 

 気のせくまま、いそぎ足で歩いていたところ急に牛が動かなくなったので、どうしたかとひょっと、うしろをふり向くと、大きな赤鬼が真っ赤な口を開き、毛むくじゃらの手をのばして、いまにもつかみかからんばかりでした。

 

 お百姓さんはびっくりして、かついでいたくわも牛の手綱もほおりだしていちもくさんに逃げました。

 

 そして「弁財天」様を祀るお社までたどりつき、お助け下さいとお願いしました。

 

 鬼はドスン・ドスンと大きな足音をたてながら追ってきましたが、弁財天様のお社が見えると、あきらめて山に帰りました。

 

 お百姓さんは弁財天様のおかげで命びろいしたのです。

 

 その後、村人は鬼が出た谷を「じごく谷」弁財天様をおまつりしていたお社の場所を「べんざい」と呼ぶようになり、いまに伝わっています。

         

       豊田郡誌・大崎町史より


明石奥山の弘法岩

 

 昔、むかし、弘法大師がこの大崎島にきんさったそうな。

 

 そのとき原田の小野から大畠山を通り険しい山奥を超えて明石にこられたげな。

 

 その頃はまだ才の峠の道はなかってのお、皆んな奥山を通りよった。

 

 急な奥山をおりんさって明石の家々を目の前にしてやれやれ一休みと道端の大きな岩に腰をかけんさって一刻休まれたそうな。

 

 そのとき弘法大師が腰をかけて休まれた岩を村人は弘法岩と呼び奥山を越えるときはいつも拝んで通りよった。

 

 その後信心深い人が岩のそばに小さなお堂を建立し、弘法大師をおまつりしたそうな。

 

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後に原田と明石を結ぶ才の峠の道ができたため、険しい奥山を越える人もいなくなり奥山の道は、山に「木の葉」を取りに行く人ぐらいしか通ることもなかった。

路傍の弘法大師をまつった小堂も朽ち果て、僅かに敷地の跡と思われる石を残すのみで、弘法岩も木立に埋もれて人々から忘れられてしまた。

今では付近のみかん畠に行く人が時々通るのみで弘法岩の由来は風化してしまい、その存在を知る人は僅かになっている。